わたしは、コーヒーを淹れるのが好きです。
淹れる行為が好き。
- ケトルに水をいれ、コンロに掛け、火をつける
- その間にコーヒー豆を棚から取り出し、グラインダーで豆をひく
- ケトルの水が沸騰したら、コーヒーサーバーを温める。
- 一度コーヒーサーバーのお湯を捨て、ドリッパーをセット。
- ドリッパーにペーパードリップ用の紙を置き、ひいた豆を淹れる。
- そして、2,3滴、お湯を垂らし、コーヒー豆をふっくらさせる。
- そのあとは、少しずつお湯を入れていき、コーヒーを抽出していく。
この一連の動作が、自分の集中力を高め、余計なことを忘れさせてくれます。
ふと、なんでこんな面倒くさい行為が好きなのか考えてみました。
好きな理由は、14歳から24歳まで習っていた茶道のせいのようでした。
中学校2年生のときに、茶道部に入部。
広島の茶道上田宗箇流の家元(その流派の総本山)が、学校から徒歩10分のところにあったため、指導熱心な先生が中学の茶道部に来てくれてました。
中高一貫校だったので、5年間、毎週茶道のお稽古をつけてもらっていました。
なんで茶道が好きかまで書き始めるとキリがないので、ここでは省略します。
ただ、茶道で学んだことをいくつか並べてみます。
- 茶道では、お茶を点てるときが、最も集中力が高くなるようにプロセス設計されています。
- お茶を点てるまでのプロセスは、つねに同じ動作です。
- 同じ動作を繰り返し行ない、体に染み込ませることで、その動作をおこなった際には雑念を徐々に取り払えるようになってるそうです。
- これは、弓道で矢を射る部分を緊張の頂点として、それまでを集中するためのプロセスと定義しているのと同じです。
ここからわかるのは、
- 日々の生活の中でも、繰り返しの動作を取り入れることで、雑念を取り払うことができる。
- 自分を落ち着けたり、なにかものを考えるまえに、その動作を取り入れれば、今までの状態を一旦リセットできる。
- ただ、その状態にたどり着くには、幾分の修行が必要である。
ということでした。
つまり、わたしはコーヒーを淹れる行為で、茶道で学んだ雑念を取り払い集中するという行為を代替していることに気が付きました。
また、同じ動作を繰り返して心を落ち着けるという方法を、自然と身に着けていることにも気が付きました。
コーヒーを淹れるのが好きなのではなく、雑念を取り払って集中したい、というのが本質なのかもしれません。